ノックの後間髪入れずに執務室のドアを開けると、部屋の主は少し驚いたような顔で来訪者を迎えた。
「よう」
「やあ」
短さも極まれりといった挨拶を黒髪の上司と交わしながら、エドワードはつかつかと窓近くのデスクへと歩み寄る。
「今着いたのか」
「いや、昼過ぎにはこっちに来てた。昼間一度立ち寄ったんだけど、なんか忙しそうにしてたから出直した」
「ああ、ちょっとね。くだらない事件に手こずらされていた。…来てくれて嬉しいよ」
軽く微笑み、ロイは手に持っていたペンをことりと机の上に放って軍服の襟を緩めた。 ふうとひとつ息をつくと、珍しく金の髪の錬金術師が労るような表情を見せる。
「夕食を逃すくらいで済んで良かったよ」
「食ってねえの」
何か買ってこようかと申し出るエドワードを、いやいい、とロイは手を上げて制した。
「どうせもうすぐ仕事も終わる。それに、どちらかというと今は食べ物よりも――こっちの方が良いな」
デスクの裏からゆらりと揺れる琥珀の液体が入ったボトルを取り出し、ロイはにやりと笑った。
「…あんた、それどこから」
「錬金術とは便利なものだな鋼の、何も無いところに隠し扉でもなんでも作れてしまう」
「今の、聞かなかったことにする」
中尉にばれたら俺まで怒られる、とエドワードは少々げんなりした顔で呟いた。
無論、職場に酒を隠していようが流石のこの上司もどんなときにそれを引っ張り出していいかの分別くらいすると解ってはいるが。
「空きっ腹に酒ってまずいんじゃないの」
「ほんの一杯さ」
一応、相手の健康を案じて軽く牽制してみるものの当の本人は嬉しそうにまたもやどこかから、今度はロックグラスと、更にワイングラスをひとつずつ取り出してきて応接用のテーブルにトンと置いた。
「仕事明けに一休みしたって構わないだろう?君も付き合わないか」
「俺、」
ウイスキーなんて飲めないけど、と言いかけたエドワードの目の前に細長い深緑のボトルが突き出された。
「ほら君用に、アイスワイン」
高かったんだぞと満面の笑みを向けられ、エドワードは肩を落とした。
「…わかったよ付き合ってやるよ、一杯だけな」

まあ、事件も一段落してることだし。もうすぐ上がりだって言ってるし。
そう考えながらエドワードは、ソファの隣に並んで座った上司が足の付いたグラスに注ぐボルドーの色を見つめた。
昼間来たときに随分厳しい顔をして動き回っていたその人を覗き見てしまっただけに、多少なら仕方ないかと寛容な気分にもなってしまう。
「乾杯だ」
持ち上げられたロイの手のグラスを見てまたもエドワードは呆れ声を上げた。
「ストレートかよ」
「仕方ないだろう、さすがに冷凍庫は作れなかった」
ああそう…ぼそっと呟きエドワードも手のグラスを同じ高さに掲げる。
「何に乾杯?」
「仕事が片付いたのと、君がまた無事に帰ってきてくれたことに」
カラン、とガラスのぶつかる音が響いた。
深い紅の液体に口をつけたエドワードは一言、甘、と漏らしたが直後に鼻に抜ける香りに顔をしかめた。
そんな様子を見てロイが機嫌良さ気に笑う。
「やっぱり酒にはまだ慣れないようだね」
「…ったりまえだろ。あんたとは違うっつの」
「そうだと思って甘口のものを用意しておいたんだが」
エドワードはうーんと唸った。
「味は平気なんだけど、匂いが苦手」
けれどそう言いながらも二口三口と甘いワインを口に含む子どもを愛おしげに眺め、ロイもロックグラスをくいと傾ける。
「どうだった、今回の旅は」
「んー…ま、いつもと変わりなくって感じ」
「ほう、収穫なしで騒ぎだけ起こして帰ってきた、と」
う、とエドワードは顔を引きつらせる。
「知ってて訊くなよ…」
「報告書、待っているよ」
決まり悪そうに言うエドワードに、ロイは愉快そうに微笑んだ。

そうしてぽつぽつと、互いが傍らに不在の間の出来事を代わる代わる話す。
束の間、時間の流れが遅くなったような錯覚。
それぞれが手に持ったグラスの中身は思いがけず口を滑らかにしてくれた。

やがて半分ほどにまで減ったワインを、飲めるか飲めないかと思案しながらエドワードがグラスをくるくる回していると不意に首筋に何か触れたような気がした。
「ん?」
振り向いた途端に後ろから首に腕を回され引き寄せられた。驚く間もなく唇を重ねられる。
「…!」
ウイスキーの――ロイの口に残る琥珀色の酒の香りがなだれ込んできて、その慣れない苦味に意図せず思いきり眉をひそめてしまう。 けれど抵抗しようにも口を塞がれていては声も上げられない。頭の後ろには大きな手が回され、逃げることも叶わない。中身の残るグラスを手落とさないよう握っているのが精一杯だった。
「っ……」
唇をなぞられる感覚にぴくりと肩が震える。頬が、熱くて堪らない。
さっき、苦いと思ったこの残り香がいつの間にかとても甘く感じられるのはどうしてだろう――飛びそうな意識の中で、そんな考えがかすかに瞬いた。
しばしの後、ようやく自由が返されエドワードははあっと息を吸い込んだ。
俄かに取り込んだ強い酒気に、くらりと眩暈が襲う。
「いきなり何すんだっ……あんた酔ってるな?」
怒鳴りつけようとしてロイに目をやったエドワードは、顔色は変わっていないくせにとろんとまどろみかけている黒の瞳を見て行動の訳を悟った。
「失礼な。酔ってなどいない」
…古来、酔っている人間は違えず自分は酔っていないと主張するものではなかったか。
「阿呆か」
平然と否定するロイにぴしゃりと言い放ちエドワードは大人の手からグラスを引き剥がした。
「うわ全部呑んでる…だから言ったのに。大体疲れてるときに酒なんか飲んだら回るの早いに決まってんだろうがっ。しかもストレートだし。チェイサーくらい用意しとけっての」
ぶつぶつ悪態づいていると再び手が伸びてきて今度は上半身ごと絡め取られた。思わずうわっと声を上げると相手の身体がぐらりと傾いでエドワードに圧し掛かってきた。それを支えきれず重力の赴くまま後ろに倒れ、ほとんど押し倒されたような体勢になってしまう。
…既にワイングラスをテーブルに置いてあったのは幸いだったかもしれない。
「おい大佐っ、しっかりしろよこの酔っ払い!」
覆いかぶさる重みから逃れようとエドワードはじたばたもがくがロイは目を瞑って動かない。
「寝るな起きろ!仕事はどうしたさっき書いてた書類はっ」
「あれは、明日でも間に合う…」
ぼそぼそと聞こえてきた疲労と眠気の滲むその声に、エドワードははたと動くのを止めた。
この上司が決して酒に弱くなどないことはよく知っている。こうなっているのはきっと酔いの所為だけではないのだろう。
…見た目よりずっと疲れていたのかもしれない。 まったく、『くだらない』事件だなどとはよく言ったものだ。
エドワードは観念して溜息をひとつついた。
「仕方ねえな…」
上がり前に飲酒を許容した自分にも責任の一端はあるだろう。
部屋に誰も尋ねてこないことを祈りながらエドワードは小さな手を伸ばしてロイの背中をさすってやった。
「…少ししたら起こしてやるから」
だから寝てろ。
耳元でそう言うと。すまない、と、もうほとんど吐息の一部でしかないような囁きが返ってきた。
エドワードは少し笑い、応える代わりに左手で黒髪の後頭部をぽんぽんと叩いたが、急速に眠りの世界に落ちていく上官に果たしてそれが感じ取れたかどうか。

酒の香が残る静かな寝息をすぐ傍に聞きながら、エドワードは秒針が時間を刻む音に耳を澄ませ始めた。

Novelletteの憂さんより、お誕生日に頂きました。優しくて、暖かいおはなしを有難うございます。これからも是非、仲良くしてくださいね。