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とん、と音がした。背後で蠢く影が壁に映り、それは時折、部屋の中に居た彼女に触れようか触れまいか迷っているかのように見え、可笑しかった。墨の中で、息を付かずに溺れているかのように、彼女はもがき苦しんでいた。窓の傍で、独りで、すすり泣いていた。多くのヒダで覆われたドレスは、鬱陶しいほど波うち、レースを贅沢に使用した大きなリボンが、彼女のブロンドと共に、静かに揺れた。艶やかさと、それでいて少し、女の腹黒さも示すかのような黒と赤が鏤められた趣味の悪いショールは、間違いなく、あの男の贈り物である。 やがて、背後の闇はあたりの闇を飲み込み、恐ろしいスピードで増殖していった。彼女の周りだけを残すように、部屋の中は、闇だった。 氷の入ったグラスの中のウイスキーが僅かに光る窓の外の光を受けて輝けば、酒のことを良く知らない彼女が入れたものだと、直ぐに分かった。添えられたキャビアの不似合いさの関係が、悔しいけれど、彼女とあいつに良く似ていた。 「大丈夫?」 無知な彼女に、有名な詩人の話をしてあげた。 赤い革張りの表紙の詩集は、激的な一瞬を作ると勘違いしていた。彼女は美しい言葉を聞くことなく、ドレスの裾を持ち上げて深くソファに腰掛けた後に、「聞きたくない」とそれだけを言ってクッションに顔をうずめた。 「君は馬鹿だ」 「知ってる、貴方より」 「……前みたいに、舞踏会には出席していないようだけれど、」 アンティーク調の家具の上に一つだけ置いてある仮面を手にとって、眺めた。宝石なのか、ガラスなのか、真珠なのか、ビーズなのか良く分からないものが大量に付着していて、気味が悪いとすら思った。仮面の両サイドには、大きな赤い羽根が揺れていた。ああ、数年前、彼女は是を付けて踊っていたのだ、と思うと懐かしくて少しだけ、笑った。 「歳をとりすぎたから」 「2、3年しか経っていないじゃないか」 「20年、30年の間違いでしょう」 仮面を外す彼女の爪の色は、毎回異なっていた。二日続けて同じネイルアートをすることは、彼女の性格が許さなかった。毎日のように行われていた舞踏会で、違う彼女の手元は、彼女のお洒落の、魅力の一つであり、他の女性をも魅入らせるほどに美しかったその手は、今じゃやや皺がよって血の滲んだささくれが目に付いた。あれほど長かった爪は、毎日彼女に齧られたせいで深爪へと変貌している。 「家事もしているようだね」 「ええ、」 「昔の君が見たら、たいそう驚くだろう」 昔の親友も、と付け加えようと思ったが、彼女が立ち上がって「何か、召し上がる?」と尋ねてきたため、ああ、本当に変わってしまった、と悲しくなった胸のうちを明かすことは男として恥だと考え直し、彼女の入れた紅茶で流し込むことにした。 「外出もしていないから、と君のかわいいご友人たちも心配していたし」 「うわべだけの、ね」 「僕が、君の変わりになれれば一番良いのだろうね、僕にとっても、君にとっても」 「心にも無いことを」 焼きあがったケーキは、酷く神経を疲れさせる香りだった。未だ、帰ってこないのだろうか。奇跡が起こったら、彼女は又、仮面を手にするのだろうか。1%に縋ることなんて、到底俺には出来ることではないだろうかと自問自答しているのだ、毎日。彼女に似合うだろうと買ったドレスの箱は未開封で、部屋の端に邪魔だと言わんばかりに積んであった。 「中身を見てくれれさえすれば、僕も救われるのに」 「どうぞ、持ってかえって下さい。そうじゃなきゃ、ドレスが可哀相でしょう」 いつまで繰り返されるのだろうか、この会話は、と思うと気が遠く、一番下の箱は最早上からの重みに耐えられずに見事なまでに潰れており、そこから覗く淡いレモン・イエローのドレスは今の自分の趣味ではないと思うと、酷く、悲しかった。 |