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目の前でわたしを不思議そうに眺めた後、首をかしげた小生意気なガキは、よそ行きの形をして香水の匂いをあたり一面、無遠慮に撒き散らす母親の姿を追った。
「ほら、コウちゃん、ご挨拶は」"コウちゃん"の背中を軽く押して、母親は「それじゃあ、お願いしますね」とピンヒールのあぶなっかしい靴をよろよろと履きながら言った。 「あ、すみません。最期にお子さんのアレルギーの再確認をしてもよろしいでしょうか」 母親は、私の言葉にまるで、キャンバスのように油絵を塗りたくった化粧が、顔をゆがめることによってパキパキと崩れるのを防いだのか、なんともぎこちなく顔を顰め、「ええと、ナッツ全般、それからハウスダストも少し。……それだけだったと思います」と大声で言った。手の中の書類と母親の言葉を照らし合わせながら、彼女の言った「思います」という曖昧な言葉に軽く腹を立てつつ、「確認しました」と顔を上げると、もはやそこには母親の姿は無く、ああ、なんとも身勝手な彼女の背中にふと、わたしの母親が重なって吐き気がした。 ぼんやりと廊下の端に立って、指をくわえこちらを見ているコウちゃんは、わたしがにこりと微笑むと、それで安心したのか怖かったのか、一気にうえええと大声で泣き始めた。「お母さんから、お話があっているとは思うけれど、」母親、という言葉に反応したコウちゃんは泣き止んで顔をあげて、「今日は一日だけお姉ちゃんと一緒に遊びましょう」と手を差し伸べたわたしにまた、大声で泣き喚いた。 ようやく打ち解け、おやつに作ったホットケーキを一緒に頬張っていたときに、ピンポーン、と軽やかな音でチャイムが鳴った。頭に叩き込んだ書類の内容を瞬時に思い出す。2、3日前に打ち合わせをしにここへ訪れたときの彼女は、化粧っ気がない代わりににこやかで、わたしの質問にも快く「訪問客は来客で無い限り、出来るだけ応答してください。多分、宅配便だけだから」と答えたのもついでに思い出した。人間と言うものは、あそこまで変わるのだろうか。「はい、今行きます」と玄関を開けると、目の前に立っていたのはスーツをきて、ダンボールを抱えたなんとも胡散臭いセールスマンだった。 「今、我が社の自信作である、キッチン用品を売り歩いているのですけれど、」 「うちには必要ありません。お引取り下さい」 「便利なものはどれほどあっても無駄にはなりません。奥さん、包丁も使わずに野菜や果物を簡単に切れるスライサーなど、欲しくないですか」 「要りません。スライサー、うちにありますけど」 「まあ、とりあえず話をきいてもらってから、」 「話をきくのも必要ありません。貴方にとっても、頑なに拒む家を説得している間に、もっと脈のありそうなお宅を探したほうが良いのじゃないですか」 曖昧な態度では駄目、きっぱりと断るべし。 この先に来るプロの言葉に身構えた瞬間、彼は意に反して「そうですか」とあっさりと引き下がって、玄関先においていたダンボールをよいしょ、と持ちあげた。そして、わたしのほうを一瞥して、「つくづく厭になるんですよ。情も入らない営業文句、わたしにはこういうのは無理なんですよね。どうしても棒読みになってしまう。これでも、中学時代は演劇部の副部長だったんですよ」情けを売って、それでわたしに買わせるつもりか、と思ったら、そうではなかったらしく、では、お時間頂いてしまってすみませんでした、とドアを開けた。そのとき、ガシャン、と大きな音がしてそれからコウちゃんが泣きながらこちらへ走ってきた。「落としちゃったの?怪我はない?大丈夫?」泣いてばかりなので、慌ててコウちゃんの全身を見たけれど、怖がって号泣する彼はわたしに身体を触らせたくないように身を捻り、外傷があるのかさえ分からなかった。困り果てるわたしを尻目に、彼はさらに大語で泣き続けているわけで、食器は万が一のためにプラスチック製を選んでいて良かった、と思った。大丈夫、大丈夫、と連呼し続けるわたしを、不意に遮る手があった。セールスマンだった。彼は手馴れた様子でコウちゃんの身体を確認して「怪我はありません」と呟き、それから怖かったね、痛くない?と尋ね、コウちゃんはいつの間にか泣き止んでいて、うん、と頷いて、それを見てセールスマンはにっこりと笑って、じゃあ、お姉ちゃんと一緒にお片づけしておいで、というとコウちゃんは、ぎゅ、とセールスマンの袖をつかんで「お兄ちゃんも」とはいけ好かない。「コウちゃん、お兄さんは忙しいから、駄目でしょ」と注意すると、セールスマンは「良いですよ、今、丁度昼の休憩の時間ですから」と笑って、一緒にお掃除しようねと言った。「いや、あの、申し訳ないですけれど、わたしこの家の持ち主ではないので、勝手に他人をあげるわけには」と言いかけたわたしに気にも留めず、セールスマンはコウちゃんの手を引いて家の奥へと入っていた。 あわててリビングへ行くと、床はすっかり綺麗になっていて、キッチンでセールスマンが食器を洗っているところだった。「あ、もうすぐ終わりますから」彼はにこにこ笑ってそう言って、わたしはとりあえず家の中の貴重品を目で追って盗まれていないことを確認した。それから、水の音が止んで「はい、綺麗になりました」というとコウちゃんもわーい、と言ったりして、その光景が、恰もこの元演劇部副部長のセールスマンと、コウちゃんと、ベビーシッターのわたしが家族であるかのように錯覚させて、吃驚してしまった。 食器を棚へ片付けているセールスマンの姿を見て、そこで我に返った。「あの、本当にご迷惑をおかけして申し訳ないのですけれど、」言いかけるわたしをまたもや遮って「分かっています。勝手にあがりこんだりしてすみませんでした」と言ったセールスマンは、コウちゃんに手を振りながら「言っておきますけど、何も盗ったりしていませんからね。まあ、先ほど確かめていたようだけれども」と、それからふと思い出したように、「さっきは"奥さん"って言ったりしてごめんね。若いのに、結構大きな子供が居るんだなあって思ったんだけど、若すぎますね」セールスマンは、それでは失礼致します、とお辞儀をした。ああ、本当に営業的で無機質でつまらないと思い、それでも咄嗟に口から出た言葉は別人のようだった。「あの、スライサー、買えなくてすみません」叫んだわたしにセールスマンは振り向きさえせずに、ただ、古い映画の主人公のように後姿に片手を挙げた。なんだか、泣きそうになった。考えてみれば、コウちゃんの母親の後姿も、冷えたホットケーキも、幼い頃の母親のそれとは全くの別物であり、虚しくわたしは時計を見た。午後1時すぎ、今頃このガキの母親は一体何をしているのだろうとぼんやりと思った。 |